私は昔のことをあまり長く覚えていられない。
新しいものを見たり、新しい情報が入ると上書きされてしまうのは誰しもがそうだと思うが、私は恐らくその上書きのサイクルが早い。
しかし、小さい頃の記憶も少なからずは残っている。
家族で牡丹園に行った事、保育園で積もった雪を三角形の型に入れて遊んだ事。
でも、一番強く記憶に残っている事は小学生の1、2年生の時に受けたテストの事だ。
一応前置きがあるのだが、、
私は小さい頃から今もなのですがテレビっ子で、昔はよく母と再放送されているサスペンスドラマを見ていたように思う。(ここは曖昧)
サスペンスドラマって、必ず事件が起きて誰かが刺されたり橋の上から突き落とされたりする。
その犯人を誰かしらが推理に推理を重ねて見つけ出すのだが、
その序盤に誰かが殺された時、私はふと母に
「この人死んだの?」と聞いた。
そうすると、母は
「"死んだ"ではなく"なくなった"の。亡くなったの。」
と教えてくれた。
私は、そうか、死んだという言葉は使わないほうがいいんだ と幼いながらに思ったんです。ここはちゃんと覚えてる。
ちゃんと覚えてるというのもこの後に受けたテストによってなのだが。
そうして何日も経った時テストの日がやって来る。国語のテストだ。
小学校低学年の学校のテストなんてたかが知れてて、文の一部が空欄になっており、そこの言葉を考えて埋めろ というものだ。
そのテストの中にあった、
『ペットのいぬが◻︎んだ』という文。
私はすぐに分かった。"死んだ"なのだろうと。
分かってはいたけれど、"死んだ"は使わないほうがいい言葉であるという認識がその時はあり、
母から代わりに"亡くなった"という言葉を教えてもらっていた。もちろん、亡くなる、お亡くなりになる という応用も。
なので『◻︎んだ』の『んだ』に斜線を引き、
"なくなる"と書いた。漢字はまだわからなかったので平仮名で書いた。
この時、私は、私の回答は
正解ではない。しかし、間違いでもないんだ。
と思っていた。だから何の迷いもなくその回答をテストの終了時間になるとともに提出をする。
ここまでは何てことない。何てことなかった。
じきにテスト返却の時間が来る。
私は自信こそなかったのだが間違いではない確信もあった。
しかし、テストが返却されると、
なくなる と書いた部分は綺麗に×がされていた。
私はその時、あれ?うそ間違ってるのかな?と幼いながらに思うんです。なんだか突き放されたような、そんな気分を持ちながら。
それがしばらくシコリみたいになっていて、良くも悪くも強く記憶に残っている。
今思えば、回答としては間違いだったんだ、教師のマニュアルとしては間違いだったんだ と自分を納得させることができる。
しかし、10歳にも満たないあの時はあの×が受け入れられなかった。そうなんだと思う。
一応これがちゃんと残っている小さい頃の記憶。
これを思い返して感じることは、
「良い記憶より悪い記憶のほうが後に残りやすいんだなぁ」という事。
出来れば良い事があった記憶を多く自分の中に留めておきたいのですが、写真とか日記とかを残していない限り無理そう。
今になって、記憶を残す為に記録を残す事の大切さをしみじみと感じます。